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私は、いい死に方をしないだろう

私がどんな人間なのか?

一言で言えば、 「強引MyWay」。
自分がこれだと思い、考えれば、すぐ行動してしまう。
他人には迷惑をかけることはしないが、どうしても身内には
心配という迷惑をかけてしまった。

両親には、本当に心配ばかりかけた。想像以上の心配を。
といっても警察のお世話にはなっていませんので。

だから、いい死に方はしないと思ってます。

どんなことをしたの?って言われることと思うが、いっぱい
あるので、徐々にお話していきたいと思います。

一番はじめのことを少しお話しますと、

父は、非常に厳格な人で、大学生になっても門限19時と
いうなかなかの人でした。
もちろん それまで外泊もしたことがなかったです。

家業をしていたこともあり、中学から春、夏、冬休みは、
手伝いでした。

バーゲン時期は、お得意先の店頭で大声あげて販売してました。


友達との付き合いもできなかった。
そんなある時(大学2回生の夏)、自立しようと思ったのである。

といってもお金がない。

そこで考えたのが、住み込みだ。そして親に対しての意地で
大学はでたい。

いろいろ考えた結果、新聞配達員であった。

大学の近いところで、その希望は叶ったが、神様は、親不孝
者に試練をくださいました。

その新聞販売所は、すごく折り込み(チラシ)が多く、そこの
所長は働かない。

つまり、すべて私に教え、後は私にすべて任せるというものでした。

朝は、2時に出て、新聞を受け取り、自分とアルバイトさんの
折り込みを新聞に入れ、それが終わって配達。

配達も2~3人分、それが終わり帰ってきたら、10時まで不配当番
(配達ミスの電話当番)。

それから、寮に帰って1時に出勤、夕刊が終わるのが、6時前
そして明日の折り込み準備。これがすごく時間がかかるのです。
なんせ、量が多いから、普段の日で、11時ぐらい。金土なんかは、
1時前ぐらい。寝る時間がなかった。
その合間を見て大学。

半年間ですべての地域を覚えさせられた。なぜでしょう?
それは、アルバイトさんが休んだとき、代配させるためです。
また、新規、継続の販促のためです。

寝るところはあっても、食事なし。だから、はじめの給料を
もらう1週間は、お金がなく、水だけという経験もさせて
もらった。
もちろん、家具なんてなし。持っていたお金で買ったふとん
だけ。

でもそれだけ働いたのなら、給料すごくもらったでしょ?と
思われたかも知れませんが、10万ちょい。

その時は、分からなかったが、後に働いた新聞販売所で同じ
ぐらいの配達部数で25万強でした。

この社会人?スタートが今から考えて、丁稚奉公的な所で
よかったのだと感謝しています。


こんな感じで、だらだらとした文章になるかと思います。
なんせ国語力低いので。

末永く購読のお付き合い頂ければと思います。


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母の涙

今回は、どんな話がいいかなぁと考えましたが、やはり古い順に
お話していく方がわかりやすいと思い、古い順で前回のつづきを
お話していきます。

新聞販売所で働くようになって一ヶ月した頃、当時付き合っていた子が
押しかけてくることになり、同棲生活が始まる。(大学3回生で入籍。)

彼女は、当時OLをしていたので貯金もあり、少し生活らしくなった。
しかし、甘えなのか、疲れが溜まってか、同棲しだしてから、起きれない
のです。
仕方なく、彼女は、仕事を辞め 私の世話をしてくれるようになりました。

当時の楽しみが給料日後のお付き1回の好み焼きを食べに行くことでした。
後は、ひたすら寝ること。汚い話、寮にはシャワーとかいうしゃれたものも
なく、銭湯です。それも週一回。たぶん汗と新聞のにおいが漂っていたと
思います。

それから、8ヶ月した時、所長ともめて辞めることになります。

少し話しが変わりますが、学生時代のお話を少し。


中学2年生までは、50番目に入る優等生でしたが、3年生で急変。

授業はほとんど出ず、近くの公園で釣りしたり、万引きなどいろいろ悪の道へ。
たばこもこの時期から覚える。初体験もこの時期です。
そして最悪のボンド、シンナー。

この年から親不孝の人生が始まりました。

今でも忘れられない あのお袋の泣き顔。

進学進路を決める時期 担任の先生が突然自宅へやってきて、両親に
「この子を行かす公立はない!厳しい私立しかない!それも今の成績じゃ
難しい」と、、、、。

その時の母親の顔、、、、今でも脳裏に焼き付いています。

なんとか、とある私立の高校へ入学。しかし入学して3日目(オリエンテー
ションの時)でたばこで停学処分。

懲りずにまた母親を泣かせてしまった。

ふと「このままじゃ あかん なんとかせんと」と思い始め、不良から
立ち直ろうとする。

たばこは、隠れてこそこそして火事になったら、困るということで
公認してもらいました。

そして何事もなく、3年生に進級し、他校への大学受験戦争です。
この高校は、大学がありましたが、どうしても今までの分を取り戻し、
母の喜ぶ顔が見たく、他の大学を目指して勉学に勤しむのです。(笑)

学校側も他校への受験は何十年ぶりとのことで、出席日数を考慮した
スケジュール表まで作ってくれました。(感謝)
簡単に言うと 今日は、1時間目で早退して、明日は、6時間目に来て
遅刻扱いというものです。

高校3年生の1年間は、本当に苦しかったことを覚えています。
だってそれまで勉強もしていないし、みなさんご存知か知りませんが、
教科書自体にランクがあるのです。同じ数学Ⅰの教科書でも進学校と
ちょっとレベルの低い学校では、内容が全然違うのです。


そして4校受験し、皆さんの援護により、めでたく2校受かりました。
当然私立の大学ですが、世間では普通のちょい上のクラスです。

苦しさから逃れたうれしさで、大学ですぐに友達を作り、朝から夕方まで
麻雀です。もちろん出席を取る科目、必修科目は、出席しました。
家を出る2回生の夏まで毎日正門の前までは、登校しました。(汗)

要領がよかったのか全然勉強もせず、2回生で卒業単位をほとんど取ってし
まいました。

なんせ 人には恵まれていて、雀荘でたくさんの先輩方と知り合いになり、
あの先生は、厳しいとか、取りやすいなどいろいろな情報を頂きましたから。

3,4回生は、ゼミだけで めでたく卒業です。

という学生生活を有意義?に送って参りました。


なんか こんな話読んでいて おもしろいですか?  つまらないでしょ?

人の話なんかどうでも いいんじゃないかと ふと思いましたが、、、。

次回からは、過去のいろんな体験談を書くことにします。


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えっ こんなに違うの?

新聞販売所を辞め、寮から大学近辺の古い一軒家に引っ越すこと
になったのです。

引っ越しと同時に法定上の夫婦となる(前妻)のである。
私は、幼い時から家業の手伝いをしてきたからか、働くというこ
とに抵抗もなかったように思える。

新聞の仕事を辞めたことで嫁も私から解放され、働いてくれた。
私は、なぜかすぐ親しくなれる生まれもったみのがあったのか、
大学の教科書を販売などをする書店の社長と親しくしていたこと
もあり、そこでアルバイトさせていただくことになる。

教科書販売も終わり、一段落付き同じ系列のゲーセンの店番をする
ことになるが、どうも時間をもてあそぶためゲームをしてしまう。
下手するとその日のアルバイト了解使ってしまうこともあって
社長に渡しはこの仕事は不向きだと背詰めてとお詫びを入れて辞め
させてもらう。

次に見つけたのが、確かモス○ーの流れ作業、おばさまと一緒に
流れ作業。私語禁止でもくもくと、、、、。
私には耐えれない。1日で無理と判断。

次の仕事を探している時に、偶然にも新聞の勧誘が来る。いろいろ
自分も経験がある話などしていたら、ウチで働いてくれと誘われ。

まぁ経験もあるし、いいか、とりあえず翌日に詳しい話をしに行く
約束をし、翌日面接。

がが~ん。ここでびっくりしたのは、仕事が楽の楽なんです。
だって、朝刊もそこの人がすべて準備してくれ、配達が終われば
帰って良し。夕刊も配達して帰って良し。翌日の折り込みの準備
もしなくていい。おまけに集金も月内であれば何%、5日までなら
何%と集金手当もある。

以前働いたのはなんだったんだ!と痛切に思った。結局そこで3人
分の新聞(800部ぐらい)を配り、集金して、その当時の初任給
の3倍の給料をもらうことができた。

以前の経験があったからこそ、そこまでできたと思う。
でも気持ち良かったですよ。お金があるってことは。


ここで少し新聞配達の厳しさというものを少しお話させてもらいます。

自分は、新聞配達を1年間した人間は、根性があると評価するぐらい
思ったよりきつい仕事です。

まず、今こそ月一回の休刊日があるが、当時は、2ヶ月に一回ぐらい
だったと思う。そして、一番辛いのが冬の雨の日、何が辛いかという
と軍手ができないのです。
濡れた軍手だと新聞が濡れてしまうからです。

手がかじかんで新聞が取れないのです。真っ赤に腫れ上がり指が曲が
らないのです。

次にきついのが台風です。台風が来ようが嵐が来ようが新聞は来るの
です。だから配達です。ちょっと余談すると単車でさえ、倒されるの
です。そうなったら大変、あたり一面新聞とちらしだらけ。

まだまだあるよ。次はね。お正月、そう元旦は、増ぺいといって新聞
の増刊号といえばわかりますかね。本来の新聞以外に各企業の新年の
挨拶とか載っているやつ。それと折り込みチラシで週刊誌ぐらいの厚
みになるのです。

普段単車に積める量の4分の1ぐらいしか積めないから、普段の4倍
店に新聞を取りに帰らないと駄目なんです。
そして、普通のポストなら、なんとか入るのですが、引き戸の隙間と
か封筒ぐらいしかはいらないポストは最悪。

と言い出したらきりがないのです。

そして、はじめに苦労するのが家を覚えることです。経験ある方はわ
かると思うのですが、始め2日間は知っている人が配達する後ろを付
いて、だいたいのコースを覚えるのです。

次に順路帳というものがあって、それには、1件目から順番に配達す
る家の名前と本誌以外のスポーツ新聞、つり、将棋等のイレギュラー
のものも書いてあるのです。

それと次の家へ行く符号みたいなものが書かれています。これをテキ
と言ってました。それを見ながら配れば、初めての所でも配れる様に
なっています。便利なものです。

しかし、そうは簡単にさせて頂けないのです。朝刊を配る時間は3時
頃まだ真っ暗です。その順路帳を見るための簡単なライトは貸しても
らえますが、一番困ったのが、古い家の表札です。ライトを照らして
も見えないのです。

どうしても分からないときは、表札をはずして必死でみていました。
今考えると本当に笑い話です。

新聞配達だけではないですが、仕事というものは、他人が見る程、
楽じゃないということですね。
どんな仕事も難しいこと、苦労するものがあると思います。

だから、また逆におもしろみもあるし、達成感もあるのだと思います。

今回もなんか思い出すままに書いてしまいましたが、いいのでしょうか?
書く度に不安が襲ってきます。

まっいいか! 読む人がいなくなるまで、はたまたネタがなくなるまで
行きますか。


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風俗初体験記

まいどです!
だらだら自叙伝?「私の部屋」のお付きあいありがとうごぜ~ます。

今日は、風俗初体験なんかのお話をさせて頂きますか?

大学4回生の時なのですが、学生生活ももう終わりなんだから、経験
として行ったらと前妻からの話なんです。

わたしゃ~ びっくりとうれしい気持ちで、、、、、。
ところがそにまで一緒について行くというのです。そこまでと言っても
近くまでですよ。

そして、遊んでいる間どこかで時間潰すからって言うんです。(汗)
普通は、男の友達同士でなにかの勢いでデビューするのがほとんどじゃ
ないかと思うのですが、、、。

私の場合は、前妻の護衛で行くことになったのです。

当時大阪にもミナミを中心にソープランド(当時トルコ風呂と言ってま
した)があったのです。

なにも知らないウブな私は、適当な所へ入った訳です。
今考えたら、なかなか度胸があったんですね。システムも何も知らずに。

まだ、なんとなくその店の光景を覚えています。はじめて体験する別世界
ですから。まず店頭で値段を聞いた覚えがあります。そして、正直に初め
てであることを言いました。

金額はさすがに覚えていません。とにかく、店に入って入浴料を払って
いくらいくら帰りに女の子に渡してください。と言われたのを覚えていま
す。

そして、応接室みたいな部屋に通され、おしぼりと飲み物を頂きました。
その時何人か待っているお客さんがいたと思います。
どこへ目を置いたらいいのか困った記憶があります。

好奇心と恥ずかしさ、、、。はじめての別世界、見る物見る物が初めて。
ドキドキ ウキウキ ドキドキ ウキウキ 顔がにやけそうですが、恥ず
かしいので、平常心の顔して、、、。


何分待ったのかは忘れましたが、結構待ったように思います。
そして ついに 私の番です。


男の方が私のそばに来て、トイレは大丈夫ですかと確認して、ではご案内
致します。と言われ、エレベーターに乗ったように思います。

エレベーターが止まり、ドアが開くと前方右手に三つ指ついた女の方が頭を
深々と下げて、「いらっしゃいませ! ○○○と申します。」(ここは想像)
と礼をして立ち上がり、私の手を握りお部屋の方へ連れて行かれました。

服装は、赤の長襦袢だったように思います。年齢は、わかりません。ただ言
えるのは、私の年からみれば、オバサンだったと思います。
スタイルとか顔は、覚えていません。覚えていないということは、普通だった
のでしようね。


もう入ってしまえば、度胸はついてます。
しかし、今からどういう段取りで何をどうするのか全然わからないし、女の子
にはじめてなんです。というと「本当?なんか落ち着いてるね?」と言われた。

まず、何か飲み物を飲みながら、話をし、服を脱がしてもらうんですね。
(女性の方、なかなか貴重な情報ですよ!メモしてよ)

自分は、人に服を脱がしてもらうなんて、子供の頃親にしてもらってからない
ので、凄くはずかしいかったですね。もちろんパンツもです。スッポンポンで
す。

そして、浴槽のあるところへ導かれ、イスに座ってシャワーそして、ソープで
○○○をきれいに、後は、ボディによる全身洗いです。すごくこそばかったの
を覚えています。そして湯船に入ります。


ここの部分もすごく記憶があるのですが、湯船に入って(向かい合わせ)女の
子が私の腰を持ち上げて、○○○を水面より出して、お口でサービスしてくれ
るのです。(恥) 潜望鏡というヤツですね。

そして、マットの準備が終わり、私をマットの上に、これが大変なんです。
マットの上は、ローションだらけ、力が入れば入る程すべるすべる。
なんとか寝ころべたものの、、、、。

私は、こそばがりや(これって大阪弁?くすぐったがりや)なもので、凄く
こそばいと力が入り、マットから落ちてしまうのです。
女の子が力抜いてください。というものの こそばいのはこそばいからね。

何回落ちそうになったことか、、、。女の子も呆れて爆笑していましたね。
そして一言「マットで○○します? それかベットで○○します?」と訪ね
んですよね。

とにかく、「マットは、、、」と言って、なんとかマットのサービスも終わ
り、シャワーして、もう一度湯船に浸かり、ベットの方へ。

女の子に身体を拭いてもらい、小休憩 たばこ吸ったり、冷たい飲み物飲ん
でおしゃべり。そして、、、、そして、、、ついにやってきました。


ベットインです。

、、、、、、、、、、。
、、、、、、、、、、、、、、、。

(ここは、ご想像におまかせします)

終了後、シャワーして服を着て終わりという感じですね。

まぁ こんな感じでした。初体験の感想は、「空しい」という感じでした。
まぁ 話の種にいい経験をしたなぁという思いでしたね。
まさか、この業界で働くとは、、、、、。


という私の風俗初体験記でした。

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社会人1年生

無事大学も卒業し、書道の筆で有名な某会社にめでたく就職。
就職して3ヶ月見習いも終わり、一人営業に出ている途中、偶然にも
父が経営している会社の社員と会う。

彼の話によれば、祖父が肺ガンで入院しており、そんなに長くないので、
一度、家に連絡してみてはどうかと言われた。

家を出て、3年弱、私をかわいがってくれた祖父、ここは、連絡しないと
男じゃないなぁと思い、重い受話器を手にとった。

できれは、祖父の付き添い看護(朝から夕方まで)をしてくれないかと
父親から頼まれ、せっかく就職した会社にも事情を話し、引き継ぎ後
辞め、羽曳野市にある某病院の看護が始まる。

大学卒業後、府営住宅の堺の泉北ニュータウンに住居を替え、そこから
病院までの往復となる。

私は、初めて人間が死に向かっていく状況を経験したのです。
私が通い始めた頃は、意識もあり、いろいろ昔話をしたのですが、徐々に
正気な時が減っていくのです。

昔の記憶が急に呼び起こされたかのように、私を父親の若い時と被さり、
いろいろ話するのですが、ちんぷんかんぷんであいづちを打つだけだった。

一番辛かったのは、年も年だったせいもあるのだが、皮膚に脂っ気がなく
なり、カサカサ状態で、無意識に爪で激しく掻く為、顔、身体がみみず腫れ
した爪の痕が残り、しまいには、血をにじませることもあった。

いくら爪を切っても力ずくで掻くため、傷が減らず、傷口が炎症を起こしたり
する為、最後の手段ということで、両手にタオルで覆いかけないような処置
をされた。

本人は、それをされたこともいやだったろうし、かゆいところがかけない苛立
ちで、私に外してくれと頼むのでした。

取ってあげたくても取ることができず、私が代わりに掻いてあげるのですが、
気にくわないらしく、何度も何度も私にこれをとってくれとせがむのでした。

その時の顔と声今でも思い出すぐらい辛かったです。

私が通い始めて5ヶ月ちょっと11月の20日過ぎに帰らぬ人となった。
あんなに頑固で元気だった祖父、でも病気には勝てなかった。
いつかは帰らないといけないことは、わかっていても別れは辛い。

人間の死 死を待つ人間 その半年弱の期間 いろいろと勉強させてもらった
気がします。

祖父が亡くなって、父が経営する会社で働くことになるのです。

会社といってもちっちゃな会社、当時のメインは、紳士物ソックスでした。
年商も7億弱ぐらいだったと思います。

初めは、先輩の営業に連れられ、お得意様への挨拶と場所を覚えること。
基本的に西日本にお得意様があったのですが、私が回ったのは、大阪市内
だけ。それでもソックスというアイテムだったので、バッティング問題(競合店
同士は同じメーカーは嫌がる)もないので、市内だけでも100店舗以上は
あった。

それをまずは、覚え、それらを覚えると前日営業が受けた注文の品を納品
する業務をする。

そして、時間が余ると新規のお店にサンプルを持って飛び込み。
なにの指導もなく、サンプルを持っての拡張。
根性がいる。まず店に入るタイミング、そして何を話せばいいのか。

何もわからない私は、まず、ターゲットの店を見つけ、名刺を準備、そして
何も考えず、店内へ(躊躇すると入れない)
そして、

「まいど!」と大きな声で一言。
そのまま店内のレジ近くまで

そして、「新規のメーカーの○○○の中村です。 はじめまして。」

先方:「何屋さん?」

私:「ソックス屋です。」

先方:「今△△△が入ってるから いらん!」

初めは、その「いらん」と聞くと次の言葉がでなく、「また お願いします。」と
言って退散。

一日5件は行ってましたが、ソックスが入っていない店なんかあるわけがない
のです。

一週間そんな繰り返しの新規拡張をしている内に、精神的緊張もなくなり、
少しずつ余裕が生まれて来ました。
恐ろしいものです。慣れというものは、、、、。

だいたいが、会話パターンが同じなのですね。だから、こう言われたら、こう
話を進めようと決めていくのですが、また断られるんですね。

だったら、こう言って、こう言われたら、またこう言って、、、、、。
としている内に会話になってくるのです。

私は、右も左もわからない新人です。必死ですよね。
その必死さ、熱意がだんだん相手に伝わっていくのです。

取引まで行かずとも、お茶を出してもらったり、仕事以外の世間話をしたりと
徐々に初めてのお店にいる時間が長くなってきました。
話のパターンもだいだい同じ、親しくなってくれば、普通のお話でいける。

初めて新規拡張をし出して、2週間目ぐらいだったと思います。
はじめて取引ができたのです。今もその場所を覚えています。

それからは、とんとん拍子で新規を増やしていきました。
また、取引できていない店でもお話できる関係で、ちょくちょく遊び?に行ける
お店がたくさんできたのです。いわゆる見込み客ですね。

そして入社後半年になった頃、大阪南地区(大阪府の南半分)の担当をさせてもらいます。
新規拡張の方も平行してやってました。
今は、元気がなくなったスリー○ムさんへも飛び込み、取引してもらう様になる。
自分では、初めての大型店舗。その商談して頂いた責任者の方とも今現在も個人的
にお付き合いしております。

倒産した時もすごく心配して頂き、いろいろ助けて頂いた方です。
また彼のこともどこかで紹介させて頂くことにして、、、。

私のコミュニティ「なにわ商人商売学」で紹介するつもりである、私を変えた
某ショップ(ミナミアメリカ村では有名な店)の社長と会うことになるのです。

と言っても、この社長は、父の丁稚時代の友達なのですが、、、

その社長からの一言がなければ、今の私がないぐらい衝撃な言葉でした。
それまでの私は、父の存在、いわゆる七光りというものが、私には、凄いプレッシャーに
なっていたのです。

「おっ あんたが社長の息子かいなぁ?」
とか
「あんたの親父は凄い人やからなぁ」
という言葉を聞く度にプレッシャーを感じました。


そんな私を変えたその一言に関しては、次回お話させて頂きます。


この時期のお話は、どちらかと言うと真面目なお話になるのではないでしょうか。
まぁ あまりおもしろくないお話が続くかと思いますが、気長にお付き合い頂ければ
ありがたいです。

だんだん私というものの自立?した頃から、いろんなおもしろいお話ができるかと思います。

先日は、私の勝手をしてしまい この場をお借りして お詫び申し上げます。

では、

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あの一言

お得意先さまで、名刺を出してあいさつをすれば、「ひょっとして社長の息子さん?」の繰り返し、いつのまにか自分で自分にプレッシャーをかけるようになっていました。


社会人になったころでも、人前に立つとか初対面の方と話すると緊張してものが言えないということはなかったのですが、このプレッシャーで日々萎縮していたのでしょうね。


まぁ 私と面識がないのであれですが、私中学時代まで、赤面症で、人前では話しもできない超照れ屋だったんです。信じられないかも知れませんよね。


それで、なんでそんなにずうずうしくなったのか?って

ずうずうしい? うん 当たってるか?


それは、高校一年の夏から、させられたバーゲンの販売です。夏、冬とファッションビルなどでバーゲンセールありますよね。


その時お得意先様の店舗の前にワゴン台出して、ソックスを大声だして売っていたんです。


当時の私は、まぁ世間一般にいう思春期というか異性を気にする時期じゃないですか。


初めは、もともと恥ずかしがり屋でしょ、声なんかなかなか出せないですよね。周りを見ると若いおねえさんも、声かすれさせて大声で呼び込みしているし、だんだんその雰囲気にのまれて、いつの間にか自分も大声張り上げていたんです。

なんだ。意外と恥ずかしくないなぁって思いました。がそんなに甘くありません。呼び込みでの大声は、出せるようになってもこちらのワゴン台に来たお客様の接客が待っていたのです。


始めて会う人、男性もいれば、女性ももちろん買いに来ます。何をどういえばいいのか、それが分かっても口からでない。とにかく始めてのバーゲンの日は、くたくたになったのを覚えています。


この歳になっても覚えているということは、よほど辛かったのだと思います。


その経験を夏休み、冬休みと2年間してすごく変わったようです。まず女の子に声かすれさせて掛けれるようになりました。気軽にひっかけれる(今はナンパでかね。)ようにまでなりました。


お~いけねぇ どこまで脱線してるんですかね。すみません。

そうですよね。私を変えた一言の話なんですよね。

私に言った一言は、「背伸びするな」でした。


要するに自分のありのままでしなさい。決して自分をよく見せようなんて思うなということです。


それから、どうすればいいのだろう。言葉の意味はわかる。当たり前のこと。だが、どうしてもできないのです。当たり前のことが、、、。


そうなんです。プライドなのです。自分自身の変なプライドが邪魔をしていたのです。それに気づくまで凄く時間がかかったと思います。今考えれば、なんてことないことが、、、。


自分のプライドを捨てる。アホに徹するということです。これができた時の爽快感を今でも忘れることができません。自分自身を一度落としてしまうと、やることやることが凄く楽なんです。


社会人になるまでは、自然とそうしてきていたのに、父親の会社に帰って、いろいろなプレッシャーで忘れていたのですね。


後は、ご想像通り、自分のしたいがままに伸び伸びと恥をかきながら、今に至ります。


実は、このことを別のコミュティの「なにわ商人商売学」にも書いている途中なのです。

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父親の会社だからできた

父親の会社で働き出し、1年ぐらいした時商品企画に興味を持ち始めていました。

父の会社ということもあり、企画責任者にいろいろと指導を頂くことができ、
また独学ですが、カラーリングの勉強をしました。

と言っても専門的なことではなく、当時のカラー無地のソックスの色目全てを
購入しある程度の大きさにカットして、それらを合わせて配色的に合うのかど
うかをチェックしてくという原始的な方法です。

初めのうちは、それらのカットサンプルで配色をしていましたが、いつのなに
か頭の中でイメージとしてできるようになったのです。

ソックスの場合は、サイズがほぼ変わらないということで、商品企画的には楽な
部分もありました。

逆にいうと決まっている為にインパクトあるものを作ることが難しいということ
にもなりました。

後は、編み方と糸、糸番手、針数、の勉強となります。

商品企画の勉強をし出してから、営業スタイルがすごく変わっていきました。

あるものを売り込みに行くという意識から、店が、市場が求めているものはどん
なものなのか、どんなものが売れているのかという意識に変わっていったのです。

もちろんお店での会話も変わってきます。

いろいろな商品の見方も変わってきます。

営業が何十倍も楽しくなったのです。

そして、プロパー商品(正規の正札商品)の様な柄物を当時主流になりかけて
いた3足1000円に投入を考えたのです。

だれもが固定概念でコスト的にも無理という考えから、いろいろなメーカーを
探し、当時カラー無地とラインソックス(白地に3本ライン入り)と一色物の
柄から、プロパーと同様な柄物を作り世に出したのです。

想像以上にバカ売れ。一躍有名になり、私も企画スタッフとなり、業界紙にも
掲載され、大手スーパーの専門店部門からオーファーがじゃんじゃん来たのです。

今はなくなってしまいましたが、3足1000円の柄物を世に出した張本人は、
実は私なのです。

それからの私は、休みは1年で2週間ぐらい、勤務時間も日曜以外は、8時半
から夜の11時12時でした。

朝から夜8時ぐらいまで営業で回り、帰社後営業の残処理をして商品企画と
いう超ハードな仕事をこなしていたのです。

自分でデザイン企画した商品を自分で売ることができ、売れていく姿を見る。
これほど幸せなことはなかったですね。

自分の子供の様に商品がかわいいのです。

そうなると、営業成績もぐぅぅんと上がるのです。
だって、自分のお得意先様がほしがっている、あるいは売れそうな商品を企画
し作って売る訳ですから、売り上げがあがらないはずがないのですよね。


あと大きく変わったことは、批判、評価のイメージですね。
だれでも批判、評価というものは簡単に無責任にできます。

ただ、無から形を作るという難しさ、しんどさを知ってしまうと、簡単に批判、
評価ができなくなってしまいましたね。


またプロパー商品の企画もメインにするようになり、企画責任者が東京営業所
所長として転任されてから、企画の責任者となりました。

商品企画は、だいたい半年前からスタートとなります。秋冬物は、春先にスタ
ートなのです。
どんなカラー、トーン、柄などいろいろ推理、調査しながら、企画案を練って
いきます。

ソックスの場合は、特にカラーですね。トップス、パンツのカラーが○○系だ
から、こんなカラーで攻めるとかです。

私は、全くデザインの勉強はしていません。感性だけです。イタリア、フラン
スなどの傾向から、感性をプラスしてカラーを決めていました。

ある時は、当社独自カラーとして注目されたこともありました。

また、糸商(糸製造メーカー)から、次シーズンのカラーを聞きににきてオリ
ジナルカラーとして生産もしていただきました。

年商も私が入社した時期に比べ、3倍以上伸びました。

跡継ぎの勉強もあったのでしょう。社長である父より、販売管理、仕入管理、
生産管理の3大管理の責任者にされました。

もう大変の一言でしたね。全てが私の責任となる訳です。

これが、今になっては、凄い財産になっていますが、、、、。

大企業ではないのですが、管理の基本は、どんな業種において同じだと考えて
います。
応用は利きますよね。会社倒産後でもいろんな面で助かりました。


父親の会社だから、いろんなことを勉強させていただきました。
これらは、一生の財産でしょう。

今は亡き 父に感謝しております。

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悲しいかな

私には、小学生、中学生、高校生、そして大学生の時の友は、今いません。

同窓会のおしらせもありません。

このことだけが自分にとって悲しいなぁと思うことです。

もちろん初めの頃は、同窓会や友達からの誘いも多々あったのですが、以前にもお話させて頂いた様に父の会社で働くようになって時間がなかったのです。


夜は毎晩早くて23時まで日祝日も仕事。

行きたくても行けなかった。自分でコントロールして行けたのかも知れない。

でも当時の私には、それさえできない愚か者だったのでしょう。


そういうことを繰り返している内、中村に連絡しても無理だよ。逆に連絡したら、あいつに負担がかかると思ったのでしょう。

それからは、なんの連絡もこなくなり、みんなある地位になったのか、あちこちに転勤や引っ越しで音信不通となってしまった。

すべて自分がした行動のツケだと思っています。


息子が今度同窓会があるんだと聞くと、何があってもいけよと言ってました。そして、寂しい思いもこみ上げてきました。


今心を全面的に開放できる真の友が二人だけいます。

このふたりだけでもいてくれて、私は幸せなのです。


当時の私には、融通、余裕がなかったのでしょうね。
仕事で友を失い、家庭を失いました。

仕事のせいではなく、私自身で、、、、。

昔小指で仕事を失いました というコマーシャルがありましたね。

ある方は、自分がなにか身につける、ものにする際何かを犠牲にしないとできないとおっしゃっていました。

確かにそうなのかも知れません。

自分は、いいのですが、犠牲にされた子供はと思うと、、、、。


その犠牲にした分 私は立派になったのでしょうか?

今は、、、、。はっきりその子供に会わせる顔はありません。


だから、今からが大事だと思っています。

いや思うだけでなく、行動しています。

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私は、いい死に方しないだろう。パート2

私は、人の生まれ、身なり、職業で人を判断する人は好きでない。
いわゆる差別意識ある人のことである。

士農工商制度により、我が国日本に差別というものが始まった。

私が部落の人間でないから、そんな簡単なことが言えるんだと反論
されるかも知れないが。

私は、なぜそんなくだらないことで人を評価したりするのか分からない。

韓国へよく出張へ行っている時、知り合った方から、韓国ってどう?
韓国人ってどう?ってよく聞かれた。
どう答えたらいいのか困ったものだ。

その方が何を求めて聞いているのか分からないからである。

もし私が韓国人は、○○○だと答えたら、その方は、その答えが意識
付けされて、全韓国人に対してそのイメージを持つことになりかねない。

例えば、韓国人の同じ人に会った人によって印象も違う。
ある方はいい印象を持ち、また別の方は、悪い印象を持つかも知れない。

また、韓国人の中には、悪い方もいるし、すばらしい方もいるのです。

どこの国でも同じだと思う。

なのにそういう質問をする方がおられる。

私の感じたことを聞いているのであれば、問題もまだ少ないが、、、。

私の初めの嫁さんは、部落の人でした。

付き合い始めは、知らなかったけど、知っても別に何もない。

ただ愛した人がたまたま世間でいう部落の人だったと言うだけだ。
だから、私はなんの抵抗もなく結婚した。

家族は、もう反対したけど、籍を先に入れた私の勝ちであった。

そして、二度目の結婚相手は、韓国人。しかもバツ一の子持ちである。

彼女とは、会った瞬間この子だと感じた。そして、2週間ぐらいの付き合
いで求婚し結婚した。

互いの友達二人ずつの4人と私たち2人の6人での結婚式。

みなさんの中には、そんなこといちいち言わないでもいいことではないか
とおっしゃる方もおられると思う。

でも私には、全然問題ないし、胸を張って言えることだし、後ろめたいこ
となんて全くないから。

ソープランドで働いている時も、人に職業聞かれたら、堂々と神戸福原で
ソープランドの経営しています。とはっきり言っていました。

それを理解して頂けない方と交流持つ意味もないし、後で知れて突然交流
がなくなるのも嫌だから、何でも初めからオープンでした。

まぁ この国際結婚で親にまた迷惑をかけたことだけが、失敗かな。

親は、今の妻と始めて会った時から、ある程度認めてくれていた?

というか、反対しても私は、勝手に結婚すると思っていたのだろう。
事実そうだから、本当にわがままな親不孝者である。

ただご先祖様にご迷惑をかけたことは、長男である私が家系を継がないこ
とである。

父、兄弟がいくら韓国人との結婚を認めても、親戚がいる。結婚すること
を渋々認めても墓にいれることは反対もしくはもめることになる。

そこで、父親と次男と相談して、中村家を継ぐのを次男に任せた。

親父は泣いていた。そして、お前が幸せになるならいいよ。と、、、、。

親は、子供の健康と幸せなことを望んでいるからな。
親戚のことは、親父が話しするから心配するなと、、、、。

またまた親不孝をしてしまった。

ほんと私は、いい死に方しないだろうね。

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はじめてのVIP気分

これからもお付き合い頂ければ、わかってくると思いますが、とにかく私が動くと何かが起こるのですね。それは、いいことだったり、悪いことだったりと、、、。なかなか経験できないことを経験してしまうんですね。

今回は、始めて仕事としてつまり出張で海外へ行った時のことをお話しましょう。
ご存知のとおり、私がいた業界でも価額、コストの戦いがあり、お隣の国韓国で生産することを商社に奨められ、メーカー探しと状況を知るために社長である父と商社の人間2人の計4人で行くことになったのです。

その年が1986年7月です。よく覚えているでしょう?忘れられない出来事があり、覚えているのです。その出来事に関しては、追々お話していくことにしまして、朝10時ごろの飛行機で以前のソウルの空港である金浦空港に11時半ぐらいに到着です。

いきなり丸や棒の組み合わせの文字、これがハングルかとか思いながら、税関を通り外へ出てビックリしました。航空内の警備は軍隊の方々なのです。自動操縦を抱えて二人1組で歩いているのです。そして軍服のズボンに金属の玉を入れているのか 歩く度にカシャカシャとカッコイイ金属音がなるのです。

空港ロビーに出ると何社かの韓国商社やソックス関係の会社の出向かいでした。
はじめてのVIP気分です。確か迎えに15人ぐらいは来ていたと思います。

まずホテルへ当時最高級のホテルで有名であったロッテホテルの宿泊となります。チェックイン後食事初めての食事ですが、まぁ初めと言うことでホテルの地下にある桃山という日本料理店で食事することになりました。

食事後、2件の商社巡りです。いろいろなサンプルとかを見て、コストを出してもらい検討するという形です。行く前から、社長より名刺代わりにコスト的に問題なければ、発注するように言われていたので、デザイン等は後での打ち合わせでどの糸を使ってどの機械を使ってするかという大まかな発注を各社にしていきました。

それが終わってからが、もう生まれて初めてのVIP接待を受けるのです。
キーセンパーティといってこちらでいう芸者遊びみたいなものですが、個室の座敷に大きなテーブルが並び、その上には、宮廷料理が所狭しと並ぶのです。

そして、席に着くとママさんと女の子数人がとなりの座敷に並んで座りご挨拶があるのです。
それから、自分好みの女の子を指名するんですね。その指名した女の子が横に座り、食事のお世話をしてくれるのです。

はじめての経験、天国に昇るような気分です。たぶん鼻の下はすごく伸びていたことと思います。女の子は、ほとんど日本語があまりしゃべれない子が多かったと思います。

またの機会にお話しますが、このキーセンパーティには、2種類あり、観光用と接待用があるのです。接待用の場合は、韓国人相手が多い為日本語はあまり必要ないようです。反対に観光の場合は、日本語は絶対ということのようです。詳しいことは、次の機会にお話させて頂きます。

喜ぶのも束の間、食事の席には付きもの そうです。お酒です。当時は、ウイスキーが準備されていました。しかも男6人の女の子6人で3本すでに準備されていたのです。
そして、ぐい飲みグラス 水割りそんなものありませんよ。ストレートです。

始めてお会いした商社のお偉いさん方々ですので、いくらこちらが客でも余り無礼なこともできません。とにかく先方の2人だけには返杯してくれと日本の商社の方から言われ仕方なく了解する。しかし、それだけでも5杯になるんですよね。まずみんなで1杯乾杯でしょ。そして自分のグラスを相手に渡して飲んで頂く、それの返しで1杯ふたりで2杯そして相手方ふたりから1杯ずつで計5杯となるのです。

ぐい飲みグラス5杯といえば、はっきり分からないけど、100ccはあるんじゃないでしょうか。それだけでもうダメ。それも一気ですからね。チビチビは失礼に当たりますからね。
だから、1杯一気で飲んで、すぐにコップ一杯の水を飲んで胃の中で水割りにするという感じになるのです。

さすがに真っ赤になった顔を見てか、それ以上のお酒は勧められませんでした。

そして始めて見るものを少し少しずつよそってもらって食べるんですね。まぁ口に合うもの合わないものとありましたが、たくさん食べれたということは口に合っていたのでしょうね。
食事もほぼ終わるころには、ウイスキーの瓶は5本空になり、新しいものが1本出てきていました。凄い韓国と変なところで感心。

だいたい韓国の人が飲みに行けば、ボトルのキープなんてないそうです。必ず空にして帰るそうです。それが2本になるときもあれば、切りがないようです。

食事も終わったし、そろそろ帰れるかなぁと思いきや変な3人組のバンドが入ってくるのです。
そうです、カラオケとダンスパーティの始まりなのです。

日本の歌もあるのですが、古いものばかり。それで歌い踊りして約1時間ぐらいしてお開きとなりました。確か6時半ぐらいに入って10時ぐらいまでいたと思います。

そして、またまたびっくりはおみやげができるのです。本来接客のチームのおみやはないのですが、ひいきにして頂いている商社でもあり、ママが先に根回ししていたようです。
おみやと言えばわかりますよね。連れて帰って何をすることになるんですね。もちろん翌朝までです。

ここで初めての事件が始まるのです。それぞれ商社りお抱え運転手付きの車でホテルへ送ってもらい各部屋へとなる訳です。部屋に入ったら、日本の商社の方から、明日の予定と集合場所と時間の連絡と女の子への包み(お金)の件の話がありました。

私は、本当に気持ちがないとエッチできないのです。しりゃ~男ですから、好奇心もあるのですが、したいとまではいかないんですね。恥ずかしいという気持ちもあるからかも知れません。
それで、その商社の方に女の子は必要ないことを告げると慌てて私の部屋にお金を持ってやってくるじゃありませんか。何を勘違いしたのか、私がお金を持っていないと思ったらしく。事情を説明したら、それであればしなくてもいいので、店のママとの付き合いもあるので朝まで女の子とだけいてくれというのです。

まぁそういう事情であればと思い、朝まで一緒に寝ることになったのです。当時の韓国女性は日本女性とは違いまだまだ儒教の教えが残っており、礼儀作法等がすごく良くできていて気持ちはよかったですね。部屋に入れば、すぐにスリッパを探して履き替えさしてくれたり、上着を脱がしてハンガーにと私がする前になんでも気がついてしてくれました。

しかたないので話をしたりして、お互いシャワーをしてベットへ私は全然する気もなく寝ようとすると女の子がしようとしてくるのですね。そりゃ~お仕事ですからね。でも私がいいよってジェスチャーでいうと困った顔をするのです。いろいろ日本語で説明するのですが、通じないのです。最後には泣き出して帰るというのです。困って相手の迷惑も考えず、商社の人へ内線で話しし、そちらの女の子に説明してもらう為に私の部屋へ来てもらうことにまでなってしまいました。

私も当時ウブだったこともあり、理解できないことも多々ありました。彼女のいうことは、はじめ私が指名して一緒に食事もした。そしておみやもすると言ってここへ連れてきてあれをしないのはおかしいということです。魅力がないのか、気に入らないのかはっきりして欲しいということです。そうであれば、帰るし他の女の子とチェンジするということらしいのです。

簡単に言えば、彼女のプライドに傷を付けた形となったようなのです。いくら私の気持ちを言ってもそんな男はいないと受け入れなのです。それのやりとりで朝方4時ごろまで私の部屋で4人が、、、、。

時間も時間ということで、なにもせず朝まで寝ることに、、、、。というか変な気分で寝れない。起き出して1人冷蔵庫のものを飲んでいると、その子も起き出してきて一緒に朝までお話タイムしました。そのひとときで通じたのか やっと彼女にも笑みがこぼれほっとしたという事件みたいな体験でした。

さぁ 翌日の夜が一生忘れることができない出来事が、、、、、、。

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大変なことに

翌朝レストランでみんな集合となりました。みんなというのは、女の子も一緒ということです。結局ほとんど寝ることもできず、寝不足の一日のスタートとなりました。
なにがおかしいというか変な感じなのは、社長つまり親父と親子で女の子連れて朝食をとっていることです。

その日も、寝不足ではありましたが、午前1件と午後に2件の商社周りを終え、昨日と同じような接待です。昨日は、「オジナム」というところで、本日は、大河と書いて「テーファ」というところでキーセンパーティという接待をしていただきました。

その時は、事前に女の子のお持ち帰りは不要であることを重々商社の人に言っておきましたが、帰る時準備しているのです。それも費用はいらないからというのです。いろいろ話している内に分かったのですが、そこの女の子とできているらしくお客である私が連れて帰らないのに自分だけ連れて帰れないからだったのです。大変ですね。

その日は、ほどほどにして、みんなでウォーカーヒルというところにあるホテルに国家認可のギャンブル場があるので勉強がてらいくことに、外は台風が近づいて来ているせいか風も強く大雨だったのをよく覚えています。

そのギャンブル場は、外国人のみ入場が認められ、韓国人つまり国内仁の入場はできないのです。せっかく一緒に行っても入れず、商社の人間一人と女の子は先にホテルへ戻ることに、のこされた私たちだけ少しルーレットをすることに、、、。

1時間ぐらい遊んで、私と父親である社長とそして商社の人間との3人は、タクシーでホテルへと向かうのです。ところが、走ってたぶん15分ぐらいしたときだと思います。
父親が危ないと大声で叫んだと同時に、私に大きな衝撃とクラクションの響く音が、、、。
そしてだんだんとそのクラクションの音も小さく小さくなっていき、だんだんと血の気が引いていくのです。痛みは全くなく、なんとも言えないいい気持ちなのです。そして脳裏に私の幼児期から映画を見るかのようにスピーディに今までの過去を再現していくのです。

何十年分のものを感覚では、何十分ぐらいかかっているように感じましたが、たぶん数秒のことだと思います。私は、これで死んでいくんだと思いました。過去の映像が終わると白い雲の上に浮いているように見えました。そして隣に座っていた父親も前部座席の間に挟まれたような形で前に飛ばされていました。前に座っていた商社の人間は運転席の方へ横たわっていました。運転手は、ハンドルにもたれるように、、、、。

これが死ぬということなんだ。と思いました。しかし、神様はまだ来るなと追い返されました。とたんに背中に電流の様な激痛が走り、私は、無意識に大声で「痛っい 痛い」と叫びました。叫んでいる内にだんだんと血の気が戻ってきて、意識も戻ってきました。とにかく痛いのですが、みんなが心配です。

私の横で前に飛ばされ、前の左右のシートに挟まれるような形で横たわっている父親をさすりました。何度かしている内に気がつき、私に「事故や。事故や。お前大丈夫か」の連発です。おかしくなったと思いました。そして、前の計器で頭を切り、大量の血が流れていました。そうしている内に商社の人間も気がつき「社長大丈夫でっか?」の連呼です。とにかく、とりあえず命は3にん助かったと思いほっとしました。

外は、大雨の突風です。そこへちょうどパトカーが来たのです。ありがたいことです。しかし、言葉が通じないのです。商社の人間も英語だけ、警察官には通じません。とにかく、父親と商社の人間は外へ。私は、運転席の後で運転席側の正面衝突をしたらしく、私側のドアが変形して開かないのです。反対側のドアから出ようとしたのですが、腰を強打したのか痛くて動けないのです。

たくさんの通行車の方が下りてきて、やっとのことで私側のドアがこじ開けられ、脱出したのです。父親と商社の人間は、歩道に待避していました。その姿を見た私はビックリです。二人とも頭を切っているので、出血がすごいのです。ふたりのスーツは元の色が分からないぐらいに血の色に変わっているのです。
私は、見た目は何もないのですが、後々で分かったことですが、左足の甲の骨折と腰の打撲と左腕の肘の打撲による内出血で腕が曲がらないというものでした。

自分でも信じれないのですが、自分と父親のカバンがないことに気がつき、また事故車に戻り痛みを我慢しながら、車中を探し無事みつけることができました。
そして、なぜか救急車も来ず、そのままパトカーに乗せられて緊急病院へ。病院に着いても父親は、「事故や。事故や。お前大丈夫か?」そして、商社の人間は、「社長 大丈夫でっか?」の連呼だけです。頭を強く打っておかしくなったと思いました。

意識的にまともな私に、看護婦がいろいろ聞いてくるのですが、韓国語は全然わかりませんし、英語も簡単なことは、分かったのですが、連絡先がわからないのです。どこへどう連絡したらよいかわからず、今回商談した時交わした名刺を渡しましたが、真夜中ですから、連絡が着くはずがありません。そうだホテルだ。ホテルへ連絡して説明してもらうように看護婦さんに苦労しながら説明しなんとかホテルへは連絡が着きました。

後は、先にホテルに帰っているもう一人の商社の人間に連絡が着くかどうかですが、もうどうすることもできない状態でした。そして、外傷があるふたりから手当が。事故ということで麻酔なしで傷口を縫うのです。ふたりともその痛みで意識が回復しました。よかったです。後は私です。レントゲンを何枚か撮って、3人病室へ運ばれたぐらいに、運良くもう一人の商社の人間が来てくれました。これで私も安心です。

私は、先程も書きましたように、結果的に一番長引くことになるのです。ベットに横になっても腰が痛くて寝れないのです。そして、左手は肘が曲がったまま動かないし、左足も痛くて動かせないという状態でした。そんなとき、ほっとしたのかおしっこがしたくなったのですね。私は、自力でトイレへ行こうと試みたのですが、全く身体がいうことをききません。
私は、生まれて親以外の人に自分の息子を持ってもらっておしっこをするなんて夢にも思っていませんでしたが、悪夢のように、、、、、。凄く恥ずかしかったことを思い出します。

夜中だというのに、いろんな韓国の商社の方が来てくれ、助かりました。翌日大きい病院に移って再検査してもらえるように手をうつらしいです。始めて来た韓国で入院です。
昨日寝れなかったにも拘わらず、興奮のあまりその日もほとんど寝てませんでした。朝始めて乗る救急車で市内の大きい病院へ。8人部屋を3人専用の部屋にしてもらい、病室喫煙OKというように優遇してもらいました。

初めての韓国 始めての事故 始めて乗るパトカー 始めて乗る救急車 初めての入院と行って2日3日で凄い体験をしました。

入院中のお話は、次回に。

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韓国での入院生活

大病院へ移っての初日の午後からは、自己のうわさを聞いてか、会ったこともない会社の重役連中や社長の見舞いでてんやわんやしていました。
しかもなかなか変えることもせず、居座るのです。だから、増える一方なのです。

病院側もびっくりした様で、なにか政治界関係、芸能関係かと思われるぐらい人、人でした。一番びっくりしたのが、我々の方でした。病院の方も他の患者にも迷惑がかかるとということで、急遽病院の一番奥に当たる大部屋に移動。その部屋も元々いた患者さんを移動しての移動だったようです。なんか隔離されたような感じでしたが、他の入院患者さんと顔を会わすこともないのでよかったです。

入院して、始めにびっくりしたことが、点滴の落とす速度を調整するプラスティックの絞るものをご存知だと思いますが、そこの病院では、アルミ箔でした。そのアルミ箔をキツく絞るかで調整するという原始的な方法にまずびっくり。

次にびっくりしたことが、私は、腰を強く打撲したのか、寝ているのも辛い状態でした。それを現地の日本語のできる商社の人間に看護婦に説明してもらい対処してもらったのが、厚み1cm~2cmぐらい合板をベットの上に敷き、その上に直にシーツを引きそこに寝るというものでした。

これが、意外なほど楽なのです。確かに皮膚というか肌にはある違った軽い痛みもあるのですが、腰への負担が全然違いすごく楽になったことを覚えています。

それから、もうひとつ病院食です。確かに入院した我々は、内臓等の疾患による入院ではないのですが、キムチが必ず出てくるのです。えっ こんな辛いもの大丈夫なの?って思いました。
まぁ 我々日本人の感覚からしたら、漬け物、たくわんの感覚なのかも知れません。

我々特に私と父親は、初めての韓国そして韓国料理しかも病院のもの。食べれるはずがありません。全然手を付けずにいると、みんなが心配してか、デパート、日本料理店からてんぷら、寿司、うどんなどとにかく各商社が交代で朝・昼・晩と持ち込んで頂いたことを感謝しています。

決して、めっちゃおいしいとは言えませんが、充分のおいしさと心を感じました。
もちろん商社がお休みの土曜、日曜も来て、何時間も何人の方がいるのです。おっきなビジネスするかどうかわからないのにね、、、。

前日、前々日に行ったキーセンハウスのママさんや女の子たちもいっぱい来てくれました。雑誌等のモデルさんやそのモデルさんに付いてきたモデルのたまごさんもどこのどんな関係で来たのか知りませんが、興味津々に来てくれていました。その中のひとりに一目惚れするぐらい可愛い子がいたのです。これも縁なのでしょうか。その県は、後編でお話するとして、とにかく、私たちの事故入院パーティーみたいに毎日毎日お祭り騒ぎ状態でした。

私は、左足の先からふくらはぎかけての石膏ギブスと左ひじを固定する金属板を挟んでの包帯での固定という格好です。トイレへも左に松葉杖、右手は点滴を引っかけている車付きのものでぼっちらぼっちら行くんですよね。

そんなある日トイレで小さい方をしている時、なんか足に水滴というか細かい水滴が飛んで足にかかるのを感じるのです。おしっこが飛んだのかなぁ?と汚ねぇとか思っていて下見たら、真っ赤かの状態。そうなんです。トイレ行く途中に点滴の途中のつなぎ目外れて、血が逆流してるんですよね。慣れというか血を見ることに慣れたというのか、全然びっくりもせず、何にもなかったかのように、外れたチューブを繋いでいました。

この大事故により、なぜかわかりませんが、痛み、血に対する恐怖感はなくなっていました。というより、左ひじの伸ばしたり曲げたりできない状態をなんとかすると言われ、処置室に連れていかれ、ふたりの看護婦さんに後から捕まえられ、左のひじに消毒液を塗られ、医者が太い針をつけた大きな注射器を持ってやってくるやいないや、、、、。

そうです。いきなり肘の関節の間へその太い注射針?を差し込むのです。そして、中のものを探るかのように針先をいろんな方向へ。そしてふと見た注射器の中には、真っ黒と言ってもいいぐらいの血が抜かれていました。

数分後、医者のOKと一言で、針は抜かれ、背後の看護婦から解放されたのです。私は、ほとんどそんなに大袈裟にするほどの痛みとは思わなかったのです。そりゃぁ 一応神経も通っているわけですから、痛いのは痛いですよ。それよりもびっくりしたのは、あれだけ痛みをこらえても動かすことができなかった肘が楽に動いたことです。

肘の関節の骨折か何かだと思いこんでいた私は、うれしくてうれしくて。なんだ、そんなことで動くのかよ。要は打撲で生じた内出血の固まりを注射器みたいなもので抜いただけなのです。それでうそのように痛みもなく、、、、。感激でしたね。

そして、そういう入院生活を韓国で1週間し、日本への帰国へとなるのです。
近い距離ですが、私だけファーストクラスで帰ってきました。

初めての韓国。いろいろな経験をさせてくれた韓国。そして私の人生において大きな存在になっていく韓国。そんな韓国との初対面の思い出です。


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夢のレーザー手術

私は、目では本当に苦労しました。

私が、小学生3年生の時だったと思います。
友達らと遊んでいる時近所の大人たちがキャッチボールをしていて、
投げ損なったボールが私の左目にまともに直撃したのです。
左目はみるみる内に腫れ上がったと聞いています。

その日から数日で腫れもとれ、眼科へ行っても異常なしということで
両親そして加害者もホッとされたようでしたが、それから、2年3年と
経つにつれ、徐々に左目の視力が落ちてきたのです。
徐々に視力が落ちてきたので、左右の視力の違いによる遠近感は、急に
なったのと違いはさほど生活では感じなかったです。

小学6年生の時、大好きだった野球(当時子供会のソフトボール)も
フライが上がると遠近感がわからず、今まで捕れていたものが捕れなく
なってしまい諦めることになりました。

その時点で加害者に文句言っても後の祭りです。
中学に上がった時には、左目は、0.1以下となり、右目に負担がかかり
右目も0.4となってしまいました。

当時本当に心配でした。左目はほぼ盲目状態、もしこのまま右目が
どんどん悪くなったらと、、、、。
いや見えなくなってしまったらと、、、。

中学1年生からめがねとお友達になったのでした。
当時コンタクトもあるのはありましたが、まだ今のようなものでなく、
ガラス製でした。
説明も聞いたのですが、まだ成長期でもあり、どんどん視力は変わる
可能性があるとのことで、コスト的にめがねとなりました。

それから、確かではありませんが、26歳ぐらいまでめがねのお世話に
なっていました。

そして、コンタクトに移行。ハードタイプです。それも右目だけ。
左目は、めがね、コンタクトでは視力アップは無理だったからです。

そして、数年後ソフトに。
海外の出張時も煮沸消毒用の機器をもっていってました。
電圧、コンセントの形式が違うので、トランスやコンセントプラグなども
持っていった記憶があります。

当時は、まだ使い捨てのソフトレンズも日本には入ってきていませんでした。
弟がアメリカに留学していたのですが、当時使い捨てソフトレンズがあり
弟は利用していました。

それから、何年後か忘れましたが、やっと日本でも上陸し、すぐ切替えました。
もちろん1DAYタイプです。1WEEKなんてものはまだ、、、。


と 長々と目で苦労したことを書いてきましたが、それでは、テーマのレーザー
手術のお話です。

今の嫁と一緒に住むようになったある日、タクシーにレーザーで近視が
なおるというパンフレットと巡り会えたのです。
ずっと目に悩まされてきた私 感動しました。
これでコンタクトともおさらばできるんだと、、、。

翌日、嫁と一緒にそのパンフレットに書かれている場所へ。
新大阪のはずれの雑居ビル 少し怪しい感じもしたのですが、今までの目の
苦労がなくなるといううれしさが、その不安感も消していました。

受付をし、そのレーザー手術に関する説明を受けました。
今見えている視力の10倍見えれば、OK。平均5倍ぐらいですと。
またこの手術をした場合、2度とコンタクトはできないと言われました。
私は、嫁に相談することなく、手術することを決めたのです。

まだはっきりと覚えています。
片目70万円 両目120万円でした。
私は、片目で70万円のローンを組んで手術をしたのです。
今は、すごく安全で両目でも12万円ぐらいと聞いています。

今考えたら、すごいことを即決断したと思います。
後で知ったのですが、まだ認可もされていなかったようです。
いろいろと失敗などの問題があり、裁判沙汰になったとも後で知りました。

その時の右目の視力が0.03ぐらいだったと思います。
牛乳瓶の底みたいなレンズでしたから、、、、。

最高で10倍 0.3に戻る。
それでも悪いのですが、私は、催眠術にかかったかのように、何も考えず
手術を受けました。そうです。失敗していたら、盲目になることも考えず。
まず、目薬タイプの麻酔をして、何十分間麻酔が効くまで待ち、手術室へ
手術は10分かからなかったと思います。

そして、目薬を頂いて帰る最中に、夫婦喧嘩です。嫁に相談もせず、大事な
目の手術、おまけに70万という借金で嫁はカンカンだったことを覚えて
います。

帰宅し、麻酔がとれはじめた頃、涙が滝のように溢れ流れる状態に。そして
麻酔が完全に切れてからが大変でした。
瞳部分が痛い、でもさすることもできない。涙はボロボロと嫁はまだ怒って
いる。最悪でした。罰だったのでしょうね。

それから、数日後少し見えるようになったのですが、夜車などのライトが
当たるとレーザーで切った形でまぶしいのです。
(たぶんその部分から光りが中へもれてだと思う)

術後、どれぐらいしてからか忘れましたが、視力も落ち着き、奇跡的なのか
視力が1.0まで回復したのです。約30倍以上なのです。

すごくうれしいです。今でも0.9は見えます。
認可もされていない。しかも後々問題になり、一時消えてしまったレーザー
手術。本当にラッキーな手術でした。

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